スポンサーリンク

家康の遊び場だった城・田中城

田中城 静岡
田中城

江戸時代、戦国時代という争いが重なっていた時代に終止符を打った男が徳川家康です

その徳川家康は戦国の時代か大好きな趣味がありました

それが鷹狩りです。

そしてその徳川家康が鷹狩りをする場所としてよく使われていたのは静岡県藤枝市にある田中城付近でした

元々は激戦を重ねたお城で、
有名な武将がたくさんこの田中城を守っていたのです

今回はそんな田中城について解説していきたいと思います

スポンサーリンク

徳之一色城

元々田中城は駿河(現静岡市)の今川が作ったお城でした

その当時お城の名前はまだ田中城ではなく名前を徳之一色城と言い今川義元を支えた1人由比正信の居城だったのです

ですが桶狭間の戦いで今川義元と共に亡くなり、城は他の人に任されることとなります

田中城

田中城下屋敷

鬼平犯科帳

今川義元が亡くなった後、息子の今川氏真が駿河を治めることになります。

そして長谷川正長(はせがわまさなが)がこの田中城を任されます

1570年武田信玄の駿河侵攻により長谷川正長と家臣達は三河の徳川の元へ逃げ延び家臣として加わります

空き物件となった田中城はこの時から武田の城となります

長谷川正長はその後三方ヶ原の戦いで徳川側として武田を倒そうと奮戦しますが討死します

子孫には江戸時代に活躍した長谷川宣以(はせがわのぶため)という人物が居ますが鬼平犯科帳という時代劇の主人公長谷川平蔵と同一人物なのです
田中城

茶室

改名し、田中城に

武田家が新たな手にした田中城は対徳川の重要な要として扱われていました

武田四天王の馬場信晴が城を改築し、それまで徳之一色城という名前のお城だったのですがここで初めて田中城と改名されます。

そして同じく武田四天王で赤備えと呼ばれた山県昌景がこのお城を任されるのです

その直後武田信玄が亡くなるのです

田中城

庭園

家康が惚れ込んだ武将

山県昌景が城を任されて2年後

織田・徳川軍と武田軍が長篠でぶつかります

世にいう長篠の戦いです

鉄砲隊を巧みに使った織田軍が圧倒的に優勢となり

この戦いで武田軍が大打撃を受け、色々な武将がこの世を去りました

その中には田中城を改築した70戦一度も傷がついたことない不死身の鬼美濃と呼ばれた武田四天王の1人、馬場信晴

誰もが恐れた赤備えの武田四天王の1人山県昌景もこの地で散るのです

その後田中城は依田信蕃(よだのぶしげ)が守ります

織田信長は武田軍を倒すのは今しかないと甲州征伐に取り掛かります

元々、徳川軍と武田軍の境目のような場所に位置していた田中城は徳川軍の猛攻に合います

ですが依田信蕃は守備の名人で、びくともしません。

実はこの依田信蕃は長篠の戦いの際、長篠から程近い徳川の城であった二股城を奪い取って大打撃を受けてからも半年間、徳川の攻撃を耐え続けて、
武田勝頼が甲州へ戻ってこいと書状を送るまで守り抜いた鉄壁の守護神だったのです

そして更に武田勝頼の元へ戻る時、お城全体がピカピカに掃除されて徳川の元へ返されたそうです

それには徳川家康や家臣達も敵ながらアッパレ!と口々に褒めていたほどでした

そんな依田信蕃が今回も鉄壁の守備を見せます

徳川家康は焦らず何度も依田信蕃に城を明け渡すように説得します

依田信蕃は「武田家の命令以外は従いませぬ」と徹底的に拒否します

依田信蕃と徳川家康の戦いが拮抗するなか武田家当主の武田勝頼が自害します

これにて武田滅亡となり、依田信蕃は田中城を明け渡すのですが

徳川家康は依田信蕃に惚れ込んでいたので家臣になるように誘うのですが
依田信蕃はそれを武田勝頼様の安否がはっきりしないまま答えをお出しできませんと断っています

その断り方にまたもやアッパレ!と徳川家康は惚れ直したそうです!

土塁跡

残党狩り

織田信長は武田家の息の根を止めるため残党狩りを行います

徳川家康は説得を重ねて遂に開城することに成功しました

ただこのままだと依田信蕃が見つかり処刑されてしまうと思い、すぐ使者を出し、甲州へ戻る依田信蕃を見つけ、自分の領地である現浜松市に身を隠すよう命じたのです

それからは徳川の家臣となり北条戦などで活躍し、短いながらも徳川家康の助けとなりました

田中城

本丸櫓

藤枝宿

徳川の領地となった田中城には仏高力の名前で知られる高力清長(こうりききよなが)などがお城を任されるが目まぐるしく城主は変わっていきます

その間に酒井忠利(さかいただとし)が東海道五拾三次の藤枝宿や城下町を整備して栄えるようになります

田中城

城址

徳川家康食中毒で死亡?

徳川家康が戦国時代から大好きだった趣味の鷹狩り。

その鷹狩りをしに田中城へ来た際に茶屋清次(ちゃやきよつぐ)に最近流行っているという鯛の天ぷらを揚げて貰い食べたところ、食中毒によって倒れてしまい、そのまま体調が戻らず寝たきりとなって亡くなってしまったのです

最近の研究では食中毒で体調不良にはなったが最終的には癌で亡くなったとされています

田中城

田中城の模型

本多氏

1730年に本多正矩(ほんだまさのり)が田中城の城主となってからは130年江戸時代から明治時代まで本多氏がこのお城を守るのでした

そして1868年に廃城となるのです

現在の田中城

現在は本丸は無くその代わりに田中城本丸櫓や、茶室などが残っています

本丸櫓には当時の田中城の模型などもあり、その大きさがわかります

 

 

旅する猫のもなちゃんが田中城趾を旅する動画もあります

コメント

タイトルとURLをコピーしました