歴史のプロの方々が付けた戦国最強のランキングでも1位を獲得するのは
甲斐の虎と呼ばれた
武田信玄である
そんな武田信玄が神様のように祀られている神社が
ここ山梨県甲府市にある武田神社である
そんな武田神社をもなちゃんと散歩しながら
武田信玄について簡単に解説していきたいと思います
守護大名武田家
武田といえば
甲斐の国の守護大名としてその名を轟かせている名門です
守護大名というのは
今の時代に置き換えると会社の会長だと思ってよいでしょう。
守護代というのは
守護の代わりにその国の政治やとりまとめを行う会社の社長と思ってよいでしょう。
暴君・武田信虎
武田信玄の父、武田信虎によって築かれた
躑躅ヶ崎館は家臣団屋敷や城下町と一体化となっており
お城ではなく大きな屋敷群である。
武田信虎とは当時まとまりに欠けてる戦乱の世の中で生きた人物です。
我こそはという血の気の高い名門スポーツ校の生徒達がレギュラーを掴むんだとばかりに奮起します。
それをことあるごとに
お前にはまだ早い!
と甲斐国を抑え込んでいた武田信虎にまさかの難敵が現れます
静岡の覇者、駿河の今川が攻めてくるのです
これはまずいと館から近くにあるお城で準備を整えます
その時に産まれたのが武田信玄である
生誕の地は自分の家…躑躅ヶ崎館ではなく
今川に迎え撃つべく移動した近くのお城の要害山城なのです
今川家を追い払った後も内乱が続きます
家臣の反発を力で制御した武田信虎は
遂に難癖ある甲斐の国を統一します。
戦国時代の歴史の中で最もクセの強い人達を統一したと言ってもよいのではないかというぐらいの人達をまとめます。
ただ力でまとめてきた信虎に
家臣はついていけず
遂に息子の武田信玄を担ぎ上げます
武田信虎は前回侵攻してきた駿河国と仲良くなる為
娘を今川義元に嫁がせて親子関係となっていました
そしてその娘に会いに
駿河国、今の静岡県へ行っていたのです
そして事件が起こります
甲斐の国に戻れなくなります
駿河と甲斐の国、今で言う静岡と山梨を繋ぐ道を封鎖して
もう戻ってくるな!
パワーファイター!
ジャイアンめっ!
そんなんで皆ついてくると思ったのか!!
この国は信玄公が良くするわ!
と言ったとか言わないとかで
永久に追放します。
そして信虎は歴史の表舞台から消えます。
その後のエピソードとしては
今川義元にお義父さんとして大事にされながら信虎自身は色々旅を重ねたり自由に遊びまわっていたそうです
今川義元が織田信長に討たれた後も
伊勢に引っ越しをして北畠家に協力して九鬼水軍退治などに力を貸しています
信玄を支えた武田24将
甲斐国はというと
武田信玄が跡を継ぎ
武田信玄が国をまとめあげて
最強の軍団を作ります
武田24将とまで呼ばれる後世にまで名前が残る武将の事を呼び
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑以外の
一般的な大名ならば
4人から8人が名前の残る武将が居るとすれば
24人も居るのです
そう考えると…強いですよね?
しかもその24人を含めた武田家臣団のチームワークがよければ…
敵なしの理由がなんとなくわかりますよね…
そんな24人の簡単なプロフィールがこちらです
名前(年齢順) |
一言プロフィール |
板垣 信方 |
武田信虎を追放した立役者と言われている |
横田 高松 |
忍の里甲賀からきた武芸の達人 |
小畠 虎盛 |
鬼虎と呼ばれいつも最前線で活躍した |
山本 勘助 |
武田家の天才軍師・キツツキ戦法が有名 |
原 虎胤 |
千葉県からきた最前線で活躍した大将 |
多田 三八郎 |
岐阜県からきた猪武者 |
甘利 虎泰 |
信虎時代から支えた武田の重鎮 |
飯富 虎昌 |
赤備えという赤で包まれた甲冑を着た先駆け |
真田 幸隆 |
真田昌幸の父で真田幸村の祖父。逃げ弾正 |
馬場 信晴 |
武田四天王の一人。鬼美濃と恐れられた |
内藤 昌豊 |
武田四天王の一人。最期は織田本隊と戦った |
武田 信繁 |
武田信玄の実の弟。武田の副将 |
秋山 虎繁 |
敵の城の女城主を口説き城を奪うイケメン |
高坂 昌信 |
武田四天王の一人。撤退戦にもの凄く強い |
山県 昌景 |
武田四天王の一人。徳川家康が恐れた赤備え |
原 昌胤 |
地形を見極める力に秀でた道整備のプロ |
武田 信廉 |
武田信玄の弟で信玄の影武者役を担った |
小幡 昌盛 |
鬼虎の息子。川中島の戦いで活躍した |
三枝 昌貞 |
信玄の眼となる活躍をする若獅子 |
真田 信綱 |
青江の太刀という大太刀を振り回す豪将 |
一条 信龍 |
数少ない長篠の戦いで活躍した信玄の弟 |
小山田 信茂 |
武田滅亡の手助けをした裏切り者。文武両道 |
穴山 梅雪 |
織田信長と内通をして助かった智将 |
土屋 昌続 |
武田信玄の側で守り抜いた24将最年少 |
このように見ると個性溢れた家臣団ですよね
麦わら海賊団より個性溢れているんじゃないでしょうか?
このような個性的な武将をまとめあげたのが
武田信玄
そう…戦国最強と呼ばれた理由は
この家臣団をまとめ上げ、アットホームなチームにしたからなのです!
御館様の名言
本来相談事や大事な話などは上の上層部で話し合うのが通常の会社ですが
ここ武田(株)は違います
家臣皆が意見交換し話し合う
全体ミーティングをする会社だったのです。
自ずと仲が良くなりアットホームな会社になっていきますよね!
そしてやはり名言が多く心に響く言葉をたくさん述べているのです。
武田信玄の名言と言えば
1番よく聞くのが
風林火山ですよね?
風林火山の旗印を見たら敵が震え上がるとまで言われた
この風林火山という意味をご存知ですか?
「疾きこと風の如く 徐かなること林の如く 侵略すること火の如く 動かざること山の如し」
風のように速く動き
その時が来るまで林の如く静かに待つ
攻める時は火のように一気に攻め
守る時は山のようにどっしりと構えて耐え抜け
これが風林火山なのです。
「為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人の儚さ」
やればできるのに
何かをする前に諦めてたら何も出来ない。
最初から出来ないと思ってる人は愚か者だ
これは今で言う
為せばなる為さねばならぬ何事もの先駆けの言葉ですよね!
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
人は財産
人が居なければ何も出来ない
情けをかけて味方にするのは良いが
恨みを残しながら味方にした人は敵になる
この名言は
人がどれほど大事かと言う事を述べています
それと同時に戦での敵国の扱い方もきちんと考えなさい
兄弟や妻とか一族を殺されて渋々命乞いする武将を味方にしてもいつか仇になるよ
それなら兄弟とか妻とか殺す前にその武将を取り込む策を考えなさい
息子・武田勝頼
このような言葉を残しながら家臣団の心を掴んだ武田信玄は
戦国最強と言われる理由なのかもしれません。
武田信玄が織田討伐の途中で病気で亡くなった後は
武田勝頼が武田を背負うのですが
よく武田を滅ぼした張本人とか言われますが
武田勝頼は信玄顔負けの戦上手だったのです。
ただそれよりも織田信長という人物が上だったという結果でした
ただ武力の相性が悪かったということも敗因の理由であります
強さが同じだとして
パーを出して戦う織田に
グーで立ち向かった武田はやはり勝ち目は薄かったのです。
躑躅ヶ崎館跡と武田神社
そして武田が滅んだ後
ここ躑躅ヶ崎館は
武田神社として生まれ変わり
山梨県のパワースポットとして皆の心に残るのでした。
そして2021年11月
武田信玄は生誕500年を迎えます
戦国最強と呼ばれた武田信玄がどのように育ちどのように生きたのか
皆様も一度武田神社へ足を運んでみてはいかがでしょうか。
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