夏のシーズンにはたくさんの人が訪れる海水浴場である愛知県の知多郡美浜町に野間大坊というお寺があります
知多半島と呼ばれる地域で海の幸が豊富に取れるこの港町にあるこのお寺には過去の偉人のお墓があります
野間大坊をもなちゃんと一緒に散歩しながらその偉人を辿っていきましょう
織田信孝
信長が2番目に信頼していた息子である
なぜ2番目かというとすでに本能寺が起こる前には家督を長男の織田信忠に譲っているので
1番信頼している織田信忠が織田を継いでいるのです
本能寺の変が起こる前後
織田信長は四国を制した長宗我部氏を征伐するべく準備をしていました
総大将を織田信孝に任せて副将として織田信長自らが出向く予定を組んでいました。
ここからは時系列で本能寺の変の前後のお話をさせていただきます!
信孝文書と呼ばれる招集が三重県北部の民衆や伊賀衆、甲賀衆、そして雑賀衆、更には明智光秀が領地として任されていた丹羽国の国衆達へ明智光秀を介さずに直に招集の文書を送っています
現代で例えると会社の社長を通さずに社員達を数日ないし数ヶ月借りようとした訳です
明智光秀と長宗我部元親は繋がっている事から明智光秀抜きで丹波国から動員しようとしたのです
この信孝文書があの本能寺の変の引き金になったのではないかという見解も近年多くなってきています
武田家との戦で頑張って戦ってくれていた徳川家を招いてのもてなしが行われ、明智光秀を饗応役(接待役)に任命したのです
明智光秀のもてなした魚が腐ってたという理由から信長にボッコボコにされる
そして饗応役を解かれ中国地方出陣を命じられる
織田信孝と丹羽長秀が四国征伐の最終準備の為大阪へ
徳川家康、穴山梅雪と共に京都観光
織田信長が本能寺へ
本能寺の変
中国地方へ行くはずの明智光秀が裏切って本能寺に攻撃を仕掛ける
織田信長炎の中で自刃。
救助に駆けつけた織田信忠も間に合わず二条城で自刃。
堺にいた徳川家康は異変に気付き伊賀の山を越えながら岡崎城へ帰る
織田信孝、丹羽長秀が明智光秀の娘婿である津田信澄を討ち取る
中国大返しをしてきた羽柴秀吉が摂津富田の本照寺に陣を敷く
織田信孝、丹羽長秀が摂津富田へ豊臣秀吉に合流し
明智対織田軍の山崎の合戦が起こる
このようにして織田家は信長、信忠が死去
謀反を起こした明智光秀軍を鎮圧しました
清洲会議
6/27に清洲会議が行われます
織田家の家督を誰が相続するかの会議です
織田家家臣である柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4人で会議を行い
次男の織田信雄か三男の織田信孝の2人が候補に挙げられ織田信雄派に羽柴秀吉が、織田信孝派に他の3名が推し、織田信孝に家督が決まると思われていたが羽柴秀吉が最終的に推したのはまだ3歳の三法師であったのです
三法師とは織田信忠と徳寿院の子供で、お爺ちゃんに織田信長と武田信玄というエリートすぎる血筋の子でした
羽柴秀吉の言い分は
織田信雄と織田信孝は織田信長の息子であり本能寺の変で亡くなる前までは織田信忠が織田家を継いでいたのだからその息子が継ぐのは筋であろうということなのです
織田信孝の雰囲気だったのが一気に逆転し
織田家は3歳の三法師が継ぐ事に決定した会議でした
反秀吉派
織田信孝はその後美濃の地を与えられ、岐阜城を居城とするのです
7/4
焼かれた本能寺跡地を墓所としてお寺を再建するように指示。
その後羽柴秀吉が主導権を握ったような行動を重ねている事に不満を持ち柴田勝家と反秀吉派を組む
秀吉軍対反秀吉軍の戦いで織田信孝は岐阜城を包囲され、降参し命は助けられるが流罪とされ愛知県知多半島にある野間大坊へ行くことになります
野間で最期を迎える
織田家には手はくださないと目論んでいたのだが
秀吉は織田信孝の母で織田信長の側室を拘束し、乳母、孫娘と共に磔に。
このまま織田家の恥晒しとして生きるよりは腹を切ったほうがいいと次男の織田信雄に言われ
野間の地で自刃することに。
最後には
「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」
実はこの野間大坊とは源平合戦の源義朝が家来に暗殺された場所で義朝が暗殺された後、暗殺をした長田親子を息子の源頼朝が磔にしたという話です。
「昔より語り継がれている主人の義朝を討った場所 討った本人もいずれ殺された 必ず同じ報いが来る だからそれまで待っていろ 羽柴秀吉」
悔しさと怨みを込めて自分で裂いた腹から腸を引きずり出して目の前にあった掛け軸にぶつけたそうです
織田信孝26歳でした
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