夏のシーズンにはたくさんの人が訪れる海水浴場である愛知県の知多郡美浜町に野間大坊というお寺があります
知多半島と呼ばれる地域で海の幸が豊富に取れるこの港町にあるこのお寺には過去の偉人のお墓があります
野間大坊をもなちゃんと一緒に散歩しながらその偉人を辿っていきましょう
源頼朝
治承・寿永の乱というのはご存知でしょうか
別称源平の戦いと言われた
源頼朝と平清盛が有名な争いで
元々は天皇、朝廷の争いから始まったこの戦に
源義朝という武士が活躍するのです
京都を拠点とする天皇や貴族を守る源氏は東にある関東平野の様子を見るように言われます
その当時は平氏と源氏では平氏の方が権力があるため面倒なことは全て源氏に押し付けられるのが多かったのです
そこで源氏の中で話し合いが行われ関東に派遣されたのは20歳前後の源義朝でした
関東に向かって目にした光景に愕然とします
日々土地の領土争いで戦をしている武士を見て
のほほんと生活して貴族や天皇の言うことを聞いている武士とは全然違う姿を見たのです
数年間そこで生活をしているうちに争いごとの中心で数々の武功をあげる源義朝が居ました
その義朝の周りには敵味方問わずたくさんの配下を従えて大きな勢力になりつつありました
その噂は遠く離れた京都にまで伝わっていたという事です
関東を凄まじい勢いで制圧し、勢力を拡大している中、源義朝に子供が授かります
1人は近い未来鎌倉幕府の征夷大将軍の源頼朝
もう1人は牛若丸こと源義経です
保元の乱
そんな順風満帆な義朝が34歳になるときに事件が起こります
関東で着々と勢力を強めていた頃、
京都では後白河天皇と崇徳天皇の権力争いが起こりました。
源義朝は京都へ帰り、後白河天皇の味方につくこととします
ただし父親である源為義や兄弟などは崇徳天皇の方に味方する事となり源氏は二つに分かれる事になります
源為義率いる源氏軍と
平清盛と源義朝率いる平氏&義朝軍となったこの戦は
平氏&義朝軍が夜襲をして夜のうちに火を放ち卑怯ではあるが圧倒的な勝利として幕が下ります
ただこの戦での貢献度は平清盛の方が高く
敵方に味方した父親の源為義や兄弟を斬首せよという命令が下されました
家族は助けてくださいと不服を申し立てましたが受け入れてもらえず自分の手で父と兄弟を殺害することとなります
貴族達から親殺しと陰で言われるようになった源義朝は朝廷や平清盛に不満を覚えるようになります
平治の乱
そして1159年、義朝の人生を左右する事件が起こります
後白河天皇の右腕の藤原通憲が実権を支配していたことを妬んでいた人物がいました。
後白河天皇に従っていた藤原信頼が
自分が上に立ち実権を支配したい思い、時を同じく朝廷に不信感を抱いていた源義朝と共に謀反を起こします。
用心棒である平清盛が率いる平氏軍が熊野へ参詣するために挙兵。
留守になった隙をついて攻撃を開始。
女性や抵抗する者を全て切り捨て、遂に右腕である藤原通憲を討ち極悪非道な戦いを繰り広げ後白河上皇と二条天皇を捕縛します。
この勝利から藤原信頼が実権を支配すると思っていたのですが
数日後熊野から帰ってきた平清盛軍と源義朝軍が争うことに…
結果は大敗し、
源義朝は関東へ逃げる途中
息子の源頼朝とはぐれた為、
途中にある知多半島の野間にある
長田忠致の元に身を寄せて傷を癒すことにしました
ただそれが義朝最大の過ちだったのです
京からお尋ね者とされて高い懸賞金をかけられていた源義朝を長田忠致は恩賞に釣られて源義朝が入浴時に斬殺します
源義朝は最後に「我れに木太刀の一本なりともあれば」(私に木刀の一本でもあればお前如きに殺されずに済んだのに)と野間の地で最期を向かえます
野間大坊にて眠る
平氏と源氏はどちらが悪いというのはその時代に生きた者しか真相はわかりませんが、
後の世を作って行ったのは源氏である源義朝の息子である源頼朝なのです
今では野間大坊にある源義朝の墓所には木刀に見立てた絵馬がたくさん奉納されて独特の雰囲気を出しながら祀られています
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